190円酒場での流儀
先日、上司とふたりで酒を飲んだときの話。
そこは、チューハイ一杯190円、やきとり一本70円からのチェーン居酒屋だった。壁に向かって静かに安酒をあおるひとり客が並ぶカウンター席と、ふたり用の小さなテーブルがいささか手狭な間隔で並べられた安普請な店内だが、そこそこ繁盛していた。
顔からしてすぐにそれとわかる東南アジア系の女性店員がひとりで忙しくホールを切り盛りしており、厨房スタッフも含めた店員は合計三人、客数に対してまったく足りていないのは誰の目にも明らかだった。
その日の店内には、ふたり席のテーブルを寄せ集めて陣取った10人ほどの団体客がいた。そのうちの誰かの送別会のようで矢継ぎ早に酒をオーダーしようとするのだが、ホールにたったひとりの店員ではうまくさばききれない。
団体客はさらに追い討ちをかけるように、灰皿を変えろだのあたりめに付けるマヨネーズと七味をくれだのとたたみかける。いよいよ東南アジア系店員は「シ、シチミ? ナニソレ……?」となって手が止まる。
私と上司は仕事がらみの話をしながらも、その一連が嫌でも耳目に触れていた。
上司はおもむろに団体客のほうを一瞥してから私に向き直ってこうつぶやいた。
「ちゃうな……」
私はその意味が充分にわかって大きくうなずきながら言った。
「ですね……」
送別会がいよいよお開きかというとき、団体客が一斉に立ち上がった。さっさと一本締めて帰ればいいものを、手向けのの言葉を誰がするかでもめたり、それを野次ったりのわいわいがやがやが先ほどよりいっそう大きくなった。
すいませーん!
他のテーブルから店員を呼ぶ声が、団体客のせいでかき消される。
そういえば我々の酒もとっくの前からなくなっていた。しかし、先ほどからホールの女性店員が見当たらない。トイレにでも行ってるのだろうか。
そのうち注文をせがむ声はあちこちから聞こえ始める。それはやがて「すいませーん!」のシュプレヒコールとなり、向こうの方からは怒号に近い声すら聞こえる。それでも団体客はまだうだうだとやっている。
すいませーん!
突然上司が叫んだ。それはいらだっているというより、このちょっとしたパニックを楽しんでいるかのようだった。
すいませーん!
私も叫ぶ。東南アジア女性のホール店員は依然として消えたまま。厨房の男性店員はホールの喧騒に気づいるはずだが、まったく意に介さない仏頂面で「それは俺の仕事ではない」と言わんばかりに黙々となにかを調理している。
それを見て上司が言った。
「正しいな」
その意味も、私は充分に理解できた。
「正しいですね」
私たちふたりは、しばらくのあいだ酒が来ないことを覚悟した。
これがこの店のサービスの限界なのだ。
ひとりふたりで静かに酒をやりたい男たちのための店なのだ。
団体でやってきて送別会をやる店ではないのだ。
あたりめにマヨネーズと七味は付かないのだ。
酒がなくなった客はホール店員がトイレから戻るまで待てばいいのだ。
これが、190円酒場での流儀なのだ。
いつの間にか団体客は帰り、ホールには別の男性店員が現れて店内は落ち着きを取り戻していた。
「……サービスって、なんやろね?」
顧客満足度が云々、という言葉を頻繁に見聞きするようになってから、日本はなんだか変な時代になってきたんじゃないか、と七歳年上の上司は言った。そして続けざま、
「わたし、来期、降格になりましたわ……」
突然の告白に、部下としてこういうときにどんな言葉をかければいいのかわからなかったが、半分笑った顔で打ち明けてくれた上司と同じく、私も半分笑った顔で
「そうですか……そうですか……」
とだけ言ってしばらく黙った。そのあと、上司の負け惜しみのような話をホッピーをあおりながらずっと聞いていた。
店の奥の方から、先ほど突然姿を消した東南アジア系女性店員が私服で現れた。「オサキ、シツレーシマッスー!」と言いながら彼女が外へ消えていくのを見て、またふたりで少し笑った。